OCEAN DOCKYARD  ~1/200 model ship builder~
1/200スケールでラジコン船を製作しています。
海防艦「志賀」戦記
さて、「こじま」の製作にあたり情報を集めていると、謎に包まれていた戦時中の活動の様子が分かってきたので、簡単にまとめてみたいと思います。

当ブログでも何度も御紹介している通り、「こじま」は鵜来型海防艦「志賀」として佐世保海軍工廠で建造され、1945年3月20日に竣工しています。
同日佐世保鎮守府籍に入り、呉防備戦隊対潜訓練隊に編入されました。尚、同隊の拠点は大分県の佐伯にあったそうです。

志賀は佐伯湾で対潜訓練をはじめとする各種訓練を開始しますが、乗組員の構成は艦長を含めた士官級にも海兵出身者はおらず、殆どが高等商船学校や水産講習所の出身者、または一般大学出の予備士官であったそうです。

驚くべきは14歳の少年兵4人も乗り組んでいたそうな・・・。現在なら中学生の少年達まで戦場に投入しなくてはならなかった当時の日本の窮状が窺い知れます。

さて、ここで興味深いのは、この対潜訓練隊には大人気ゲーム「艦これ」において「ろーちゃん♡」の愛称で親しまれている呂500潜水艦が配属されていることです。

マニアックな当ブログの読者諸兄には釈迦に説法と思われますが、呂500潜水艦はドイツ様の至宝であるUボートIXC型の一隻であり、チョビ髭の総統閣下が「イエローモンキーでジャップの皆さんも、この優れた潜水艦をバンバン量産して、インド洋あたりで暴れ回っちゃってくださいよ!」と気前よく日本に無償譲渡してくれた潜水艦であります。

しかし、タダで貰ってみたものの、当時のドイツ様と日本の工業技術力レベルは正に月とすっぽんであり、コピーしようにもオーパーツじみたオーバーテクノロジーの塊に手も足も出ず、調査・研究に供された後、訓練隊に配属されたのだそうな。

ちょっともったいない気もしますが、潜航に要する時間も短く、水中運動性能も優れ、何より海中を騒音をたてずに動き回るUボートを相手にした対潜訓練は、続々と竣工しつつあった海防艦達にとっては最高の訓練になったのかもしれません。

そんなこんなで、「ろーちゃん」を相手に訓練を始めて1週間もたたないうちに、「志賀」と海防艦「192号」に出撃命令が下されます。
内容は、豊後水道において戦艦「大和」以下第二艦隊による沖縄特攻作戦の前路掃討を実施せよ!というものでした。

かくして「志賀」は、配属されてわずか6日で初陣へと赴くわけですが、海戦に関しては素人同然の乗組員達にも関わらず、敵潜水艦の撃沈を報告しています。

1945年4月6日に行われたこの海戦では、味方の零式水偵が磁気探で敵潜を発見した場所に急行して爆雷攻撃をしかけるも空振りに終わり、次いで「志賀」の三式探信儀が補足した海域に爆雷約20個を投下したところ、猛烈な音響と水中音があったので、さらに反復攻撃を継続!

すると、大量の油が海中から湧き出したので、証拠品としてその油を採取して持ち帰り、晴れて戦果として認められたそうです。

すごいぞ「志賀」!

強いぞ「志賀」!

これも「ろーちゃん」の猛訓練のおかげだね♪

ちなみに、こちらが数多くの海防艦をシゴキ上げた鬼教官「ろーちゃん」の御姿であります。
ro500.jpg


うん、とっても怖そうだね♪


その後訓練隊は、米軍の空襲を避ける為に佐伯湾から能登半島の七尾に移動し、引き続き訓練を継続しました。

そして1945年5月13日付け(5月31日とする資料もある)で「志賀」は第1海上護衛艦隊第21海防隊に配属され、朝鮮半島の鎮海に移動します。

第21海防隊の任務は、対馬海峡から敵潜が日本海へと侵入するのを防ぐことであり、朝鮮半島から対馬、壱岐のラインを二艦一組となって哨戒活動を行っていたそうです。

1945年6月1日時点の第21海防隊の編成は、海防艦「新南」、「志賀」、「生名」、「27号」、「194号」、「198号」となっております。

「志賀」は、6月3日に対馬海峡南端付近にて敵潜水艦を探知し、バディを組んでいた海防艦「27号」と共に爆雷攻撃を仕掛けるも、後日戦果確認に赴いたところ、周辺海域にはドラム缶がぷかぷかと浮遊しており、どうやら沈船を間違えて攻撃したらしいということで落着したそうです。

初陣にて見事に敵潜水艦を葬り、「潜水艦絶対殺すマン」を自認していたであろう「志賀」にとっては、何とも悔しい一件であったことでしょう。

そして7月31日の午前10時頃、哨戒任務を終えた「志賀」が、僚艦の駆潜艇「26号」と共に壱岐の半城湾に仮泊し、擬装の為に付近の木を伐採して艦を覆う作業をしていたところ、突然約40機の敵機に襲撃されました。

この時「志賀」はロープで岸と固定されていた為に動くことが出来なかったので、もし口がきけたら・・・

「タンマ!タンマ!」

と叫んでいたに違いありません。

しかし「志賀」の12センチ高角砲3基と増設されて20基ほどに膨れ上がっていた25mm機銃は激しく火を噴き、2時間に渡る対空戦闘でP51戦闘機2機を撃墜したと報告しています。

超☆強いぜ「志賀」!

この他にも、日時不明ながら朝鮮半島の麗水港に寄港中、敵機の銃撃により沈没した民間船の溺者救助を行ったり、鎮海軍港でも空襲を受けて対空戦闘を実施(戦果、損害共になし)したようです。

そして、運命の8月15日。「志賀」は終戦の日を対馬の浅茅湾で迎えました。
そこで重要書類を処分したり、爆雷を海中に投棄してから佐世保に戻り、「志賀」の太平洋戦争は終りを告げました。

う~ん、改めて文章にしてみると、「志賀」の戦争は僅か4ヶ月間ほどであったにも関わらず、極めて過酷なものであったことが窺い知れます。
そして、その短い期間の中で敵潜水艦や敵機と戦い、おまけに戦艦「大和」や「ろーちゃん」こと潜水艦「呂500」などの、超有名艦とも関わりを持っていたことが驚きなんでありますなぁ。

例えるならば、近所の小柄で物静かな爺さんが、実は昔、日本プロレス所属のレスラーで、力道山の前座試合を務めていた!みたいな感じですかねぇ。

海洋公民館時代の「こじま」には、かつてこの船が海軍の海防艦であったことを説明したパネルがあったはずですが、詳しい戦歴等は書かれていなかったように思います。

「こじま」が解体されてからすでに18年が経過しましたが、激しい戦火をくぐり抜けた元海防艦が、おいらの幼き日の遊び場であった事を、今も光栄に思う次第です。

最後になりますが、「志賀」が挙げたとされる敵潜水艦1隻撃沈と敵機2機撃墜の戦果について、平安隆雄氏の「海防艦『志賀』小史」には、米軍の損害記録や地域住民の証言等と一致しない為に、事実とは言い切れない旨が記されています。

氏は、同論文において、「かくしてこの海防艦は恐らく実際は幸運にも人を殺傷することなく終戦を迎えたのではないか。今となっては華々しい『戦果』より人を傷つけることなく使命を終えた『志賀』=『こじま』の方が平和な時代にふさわしい。」と述べています。

「こじま」の傍で育ったおいらも、願わくば「志賀」の戦果が事実ではなかった事を願わずにはいられません。
あの真っ白い綺麗な船が、たとえ戦争とはいえ人を殺めた船であってほしくはないのです。

「志賀」と乗組員の皆さんが、日本の為に命をかけて戦ったことだけは動かぬ事実なのですから。

また、「志賀」は幸運にも戦争を生きのびることができましたが、彼女にとって本当の戦いともいうべき試練は戦後の海にありました。

その話は、また後日・・・。
スポンサーサイト

テーマ:軍事・安全保障・国防・戦争 - ジャンル:政治・経済