OCEAN DOCKYARD  ~1/200 model ship builder~
1/200スケールでラジコン船を製作しています。
海防艦「志賀」戦記
さて、「こじま」の製作にあたり情報を集めていると、謎に包まれていた戦時中の活動の様子が分かってきたので、簡単にまとめてみたいと思います。

当ブログでも何度も御紹介している通り、「こじま」は鵜来型海防艦「志賀」として佐世保海軍工廠で建造され、1945年3月20日に竣工しています。
同日佐世保鎮守府籍に入り、呉防備戦隊対潜訓練隊に編入されました。尚、同隊の拠点は大分県の佐伯にあったそうです。

志賀は佐伯湾で対潜訓練をはじめとする各種訓練を開始しますが、乗組員の構成は艦長を含めた士官級にも海兵出身者はおらず、殆どが高等商船学校や水産講習所の出身者、または一般大学出の予備士官であったそうです。

驚くべきは14歳の少年兵4人も乗り組んでいたそうな・・・。現在なら中学生の少年達まで戦場に投入しなくてはならなかった当時の日本の窮状が窺い知れます。

さて、ここで興味深いのは、この対潜訓練隊には大人気ゲーム「艦これ」において「ろーちゃん♡」の愛称で親しまれている呂500潜水艦が配属されていることです。

マニアックな当ブログの読者諸兄には釈迦に説法と思われますが、呂500潜水艦はドイツ様の至宝であるUボートIXC型の一隻であり、チョビ髭の総統閣下が「イエローモンキーでジャップの皆さんも、この優れた潜水艦をバンバン量産して、インド洋あたりで暴れ回っちゃってくださいよ!」と気前よく日本に無償譲渡してくれた潜水艦であります。

しかし、タダで貰ってみたものの、当時のドイツ様と日本の工業技術力レベルは正に月とすっぽんであり、コピーしようにもオーパーツじみたオーバーテクノロジーの塊に手も足も出ず、調査・研究に供された後、訓練隊に配属されたのだそうな。

ちょっともったいない気もしますが、潜航に要する時間も短く、水中運動性能も優れ、何より海中を騒音をたてずに動き回るUボートを相手にした対潜訓練は、続々と竣工しつつあった海防艦達にとっては最高の訓練になったのかもしれません。

そんなこんなで、「ろーちゃん」を相手に訓練を始めて1週間もたたないうちに、「志賀」と海防艦「192号」に出撃命令が下されます。
内容は、豊後水道において戦艦「大和」以下第二艦隊による沖縄特攻作戦の前路掃討を実施せよ!というものでした。

かくして「志賀」は、配属されてわずか6日で初陣へと赴くわけですが、海戦に関しては素人同然の乗組員達にも関わらず、敵潜水艦の撃沈を報告しています。

1945年4月6日に行われたこの海戦では、味方の零式水偵が磁気探で敵潜を発見した場所に急行して爆雷攻撃をしかけるも空振りに終わり、次いで「志賀」の三式探信儀が補足した海域に爆雷約20個を投下したところ、猛烈な音響と水中音があったので、さらに反復攻撃を継続!

すると、大量の油が海中から湧き出したので、証拠品としてその油を採取して持ち帰り、晴れて戦果として認められたそうです。

すごいぞ「志賀」!

強いぞ「志賀」!

これも「ろーちゃん」の猛訓練のおかげだね♪

ちなみに、こちらが数多くの海防艦をシゴキ上げた鬼教官「ろーちゃん」の御姿であります。
ro500.jpg


うん、とっても怖そうだね♪


その後訓練隊は、米軍の空襲を避ける為に佐伯湾から能登半島の七尾に移動し、引き続き訓練を継続しました。

そして1945年5月13日付け(5月31日とする資料もある)で「志賀」は第1海上護衛艦隊第21海防隊に配属され、朝鮮半島の鎮海に移動します。

第21海防隊の任務は、対馬海峡から敵潜が日本海へと侵入するのを防ぐことであり、朝鮮半島から対馬、壱岐のラインを二艦一組となって哨戒活動を行っていたそうです。

1945年6月1日時点の第21海防隊の編成は、海防艦「新南」、「志賀」、「生名」、「27号」、「194号」、「198号」となっております。

「志賀」は、6月3日に対馬海峡南端付近にて敵潜水艦を探知し、バディを組んでいた海防艦「27号」と共に爆雷攻撃を仕掛けるも、後日戦果確認に赴いたところ、周辺海域にはドラム缶がぷかぷかと浮遊しており、どうやら沈船を間違えて攻撃したらしいということで落着したそうです。

初陣にて見事に敵潜水艦を葬り、「潜水艦絶対殺すマン」を自認していたであろう「志賀」にとっては、何とも悔しい一件であったことでしょう。

そして7月31日の午前10時頃、哨戒任務を終えた「志賀」が、僚艦の駆潜艇「26号」と共に壱岐の半城湾に仮泊し、擬装の為に付近の木を伐採して艦を覆う作業をしていたところ、突然約40機の敵機に襲撃されました。

この時「志賀」はロープで岸と固定されていた為に動くことが出来なかったので、もし口がきけたら・・・

「タンマ!タンマ!」

と叫んでいたに違いありません。

しかし「志賀」の12センチ高角砲3基と増設されて20基ほどに膨れ上がっていた25mm機銃は激しく火を噴き、2時間に渡る対空戦闘でP51戦闘機2機を撃墜したと報告しています。

超☆強いぜ「志賀」!

この他にも、日時不明ながら朝鮮半島の麗水港に寄港中、敵機の銃撃により沈没した民間船の溺者救助を行ったり、鎮海軍港でも空襲を受けて対空戦闘を実施(戦果、損害共になし)したようです。

そして、運命の8月15日。「志賀」は終戦の日を対馬の浅茅湾で迎えました。
そこで重要書類を処分したり、爆雷を海中に投棄してから佐世保に戻り、「志賀」の太平洋戦争は終りを告げました。

う~ん、改めて文章にしてみると、「志賀」の戦争は僅か4ヶ月間ほどであったにも関わらず、極めて過酷なものであったことが窺い知れます。
そして、その短い期間の中で敵潜水艦や敵機と戦い、おまけに戦艦「大和」や「ろーちゃん」こと潜水艦「呂500」などの、超有名艦とも関わりを持っていたことが驚きなんでありますなぁ。

例えるならば、近所の小柄で物静かな爺さんが、実は昔、日本プロレス所属のレスラーで、力道山の前座試合を務めていた!みたいな感じですかねぇ。

海洋公民館時代の「こじま」には、かつてこの船が海軍の海防艦であったことを説明したパネルがあったはずですが、詳しい戦歴等は書かれていなかったように思います。

「こじま」が解体されてからすでに18年が経過しましたが、激しい戦火をくぐり抜けた元海防艦が、おいらの幼き日の遊び場であった事を、今も光栄に思う次第です。

最後になりますが、「志賀」が挙げたとされる敵潜水艦1隻撃沈と敵機2機撃墜の戦果について、平安隆雄氏の「海防艦『志賀』小史」には、米軍の損害記録や地域住民の証言等と一致しない為に、事実とは言い切れない旨が記されています。

氏は、同論文において、「かくしてこの海防艦は恐らく実際は幸運にも人を殺傷することなく終戦を迎えたのではないか。今となっては華々しい『戦果』より人を傷つけることなく使命を終えた『志賀』=『こじま』の方が平和な時代にふさわしい。」と述べています。

「こじま」の傍で育ったおいらも、願わくば「志賀」の戦果が事実ではなかった事を願わずにはいられません。
あの真っ白い綺麗な船が、たとえ戦争とはいえ人を殺めた船であってほしくはないのです。

「志賀」と乗組員の皆さんが、日本の為に命をかけて戦ったことだけは動かぬ事実なのですから。

また、「志賀」は幸運にも戦争を生きのびることができましたが、彼女にとって本当の戦いともいうべき試練は戦後の海にありました。

その話は、また後日・・・。
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千葉市海洋公民館「こじま」改装記
さて、今回「こじま」のモデル作成にあたり、度重なる改装工事のおかげでリサーチがどえらいことになっちょりますが、「こじま」の改装工事の歴史だけを調べても面白いと思い、簡単なまとめを作成してみました。

参考文献は平安隆雄氏の論文「海防艦『志賀』小史」であります。この論文はおいらの知る限り「こじま」についての唯一の学術論文と思われ、「こじま」ファンの方は必読の貴重文献であります。タイトルでググると閲覧できますよ!

それでは、「こじま」改装記のはじまりはじまり~♪

1945.3.20 佐世保海軍工廠で海防艦「志賀」として竣工。

1945.5月 舞鶴にて艦橋下の八糎迫撃砲を撤去し、25mm機銃三連装3基、単装1基の増設工事を実施。

1945.9月 終戦にともない、佐世保にて武装解除。

1945.10月以降 掃海作業用に改装工事を行い、46年7月まで掃海作業に従事。

1946.11月 三菱重工横浜造船船渠にて米軍連絡船として使用する為に大規模改装工事を実施。主な改装点は以下の通り。
①船首楼を延長し、船室を拡大
②階段の拡大
③ブリッジを両舷に拡大
④船体側面に半円形の防舷材を設置
⑤救助艇4隻を設置
この状態で、49年頃まで連絡船として運用。

1950~1953まで中央気象台の定点観測船「志賀丸」として太平洋で気象観測業務に従事。
尚、51年の2月14~15日に激しい時化に見舞われ、最大38度のローリングに見舞われたという。あなおそろしや・・・。

1954.1.1 海上保安庁に移管。巡視船「PL106 こじま」と改名。

1954.3月頃 呉にて海上保安庁の練習船に改装。主な改装点は以下の通り。
①遠洋航海(日本一周)に用いる為に船体の補強工事を実施
②3インチ砲、40mm機関砲、20mm機関砲を各1基づつ搭載

1955.9月 ハワイまでの遠洋航海を実施する為に、日立因島造船所で更なる船体補強工事を実施。

1956 引き揚げ輸送の為に武装撤去工事を実施(一時的なものか?)

1964.5.20 解役

1965.8月 千葉市に払い下げ。呉から回航後、千葉県市原のドッグでエンジン等を下ろす工事を実施。その後、埋立前の稲毛海岸に移動して固定される。積み下ろした機関の代わりに、船首と船尾周辺の内部に砂利を大量に詰め込んだようです。(図面に砂利詰めと記載されていました)

1966.3月 海洋公民館への改装工事中に火災を発生するが、5月26日に無事開館。

1969年より周囲の埋立工事が始まり、74年に埋立完成。団地の中に船が浮かぶ異次元スポットとなる。

海洋公民館となってからの改装は、木甲甲板をコンクリでコーティングした以外は、恐らく老朽化して危険になった備品を取り外していく工事がメインとなったと思われます。

ちなみに、逐次撤去されていった備品で外見上目立つ部品は、ブリッジ前面のサーチライトとブリッジ後方にあった2段重ねの箱状の構造物、及び2隻の救命艇です。救命艇は80年代までは搭載してあったように思います。

また、ボートダビッドは、稲毛海岸回航時には4組ありましたが、前半分の2組は公民館への改装工事中に撤去されたらしく、ボートデッキの前半は広い休憩スペースになっていました。

青い天幕の張られたその場所で、ベンチに座りながらお弁当を食べた記憶が有ります。

最後に、ネットでよく見る撤去寸前の「こじま」の写真は、錆だらけでまるで幽霊船のようであり、千葉市の「こじま」に対する酷い仕打ちがことさらに強調された記事も多いのですが、公民館として運用されていた時は、定期的にペンキの塗り直しを実施していたので、塗り直し直後の「こじま」は、白鳥のように真っ白で、とてもとても綺麗な船でした。

「こじま」の千葉市における約30年の歴史は、解体の経緯はともかくとして、その大部分は行政も市民も「こじま」を大切に扱い、地域から愛され続けてきた存在であったことを忘れてはならないと思います。現在、閉館後のおんぼろ状態の写真が多く出回っている事が残念でなりません。

少なくとも、おいらの記憶の中の「こじま」は、純白の綺麗な姿のままなのであります。

※閉館後の「こじま」は、公民館として運用されていた船体だけではなく、池を含む周辺施設も手入れがされなくなり、酷く荒廃した環境になっていたのは事実です。

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微笑みの国が見た悪夢~コーチャン島沖海戦その3~
さてさて、悲劇のコーチャン島沖海戦をフューチャーし終えた当ブログだが、登場人物(艦艇)達のその後をエピローグ風に紹介してみようと思います。

まずは、当海戦における殊勲艦であったフランス艦隊旗艦の「ラモット・ピケ」ですが、その後の運命は悲惨でした。
海戦から半年後の1941年7月、日本は東南アジア侵攻の前線基地にする為に南部仏印進駐を求め、ヴィシー政権はこれを承認。これに伴いラモット・ピケは武装解除されて、空しく係留の憂き目にあいます。

そして、奇しくもコーチャン島沖海戦からほぼ4年後の1945年1月12日。海戦の英雄であった「ラモット・ピケ」は、ハルゼー大将率いる米第38任務部隊の空襲により、その辺にいた日本軍もろともサイゴン沖で撃沈されてしまいました(泣)

そ、そんなアホな・・・。
よりによって何で米軍に沈められなきゃいかんのよ。

まぁ、この時期における猛将ブル(ハルゼーさんのことね!)の攻撃は、すっかり弱体化して幼稚園児並の戦力になっていた日本軍に対して、筋骨隆々のボディービルダーが棍棒を振り回して突撃していくようなもんだから、吹っ飛ばされた幼稚園児がぶつかって事故死した通りすがりの老人みたいなものなのかもしれません。

しかし、「ラモット・ピケ」の最後は、フランスにとってもやりきれない感この上ないものであったでしょうなぁ。

やっぱ、戦争は絶対にするもんじゃありません。

一方、タイ側の主人公たる海防艦「トンブリ」は、何とかフランス艦隊の追撃を逃れて戦場からの離脱に成功したものの、火災鎮火に失敗して右舷の浸水が止まらず、海戦当日の1640に転覆沈没(一部資料によれば擱座)。
ほどなくして、日本サルベージの手により引き揚げに成功しますが、船体の損傷が著しく係留された状態で練習艦として使用されたそうです。その後、老朽化の為に解体となりますが、砲塔と艦橋を海軍兵学校の校庭に陸揚げし、現在でも日本製の20センチ砲塔を見ることができるそうです。

そして謎多き珍艦「スリ・アユタヤ」についてですが、「日本タイ協会」様のHPによれば、海戦の損傷を生まれ故郷の日本で修理し、めでたく現役復帰を果たすも、1951年6月にタイ海軍が起こしたクーデターにおいて、拘束したピブン首相を幽閉する施設として使われてしまいます。

怒り狂ったタイ陸軍は、信じられないことに幽閉されたピブン首相もろとも「スリ・アユタヤ」を空爆!

おいおい、ピブン首相を亡きものにしようとしてるの実は陸軍じゃね!?

という疑惑満載の冗談みたいな救出?作戦を強行するも、不死身のピブン首相は沈みゆく「スリ・アユタヤ」から脱出して、雑菌満載のチャオプラヤ川を泳いで生還!

哀れ「スリ・アユタヤ」は、悪運の強いピブン首相の身代わりとなってこの世を去ったのです・・・。

ほんとに「何だかなぁ」としか言いようのない船歴のお船ですなぁ。

運命のコーチャン島沖海戦からほどなくして、東南アジア水域では、日本と米英豪蘭の大艦隊が激突する海戦が何度も発生。
それに比べれば、池のアヒルボート同士の小競り合いみたいなコーチャン島沖海戦は、ズイズイと歴史の片隅へと追いやられてしまいます。

しかし、第二次大戦中は鳴かず飛ばずと言われることの多いフランス海軍が、列強海軍としての実力を如何なく発揮するとともに、巨砲と魚雷によるワンパン狙いに特化した珍妙なタイ海軍が火花を散らしたこの海戦、もっと世間様に知られてもいいよな~と思う次第であります。



微笑みの国が見た悪夢~コーチャン島沖海戦・完~

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微笑みの国が見た悪夢~コーチャン島沖海戦その2~
さて、微笑みの国が見た悪夢~コーチャン島沖海戦その2~を始めるでやんすよ~♪

ところで、タイは「微笑みの国」なんていわれてますけど、おいらが16年くらい前に数カ月間旅して回ってた頃は、外国人に微笑んでくれるのは怪しげなポン引きのおっさん達のみで、路上一杯に邪悪な微笑みが咲き乱れておりましたが今はどうなんすかねぇ・・・。

そんな話はさておき、おいらコーチャン島沖海戦でボコられたのはタイの第二戦隊のみであったという説に、ちょっと異論があるんですわ。
ネットで当海戦について調べてみると、諸説あるのが第一戦隊の旗艦であった「スリ・アユタヤ」の行動についてです。このお船は「トンブリ」と同型艦で、日本の神戸川崎重工謹製の海防艦であります。

で、この「スリ・アユタヤ」。日本ではほぼ唯一と思われる、コーチャン島沖海戦についての文献である木俣滋郎著「撃沈戦記」の「タイ海防艦トンブリ」の項においては、その1に書いた通り、戦闘海域に到着した頃には後の祭りであったと書かれているのですが、どうも怪しい。

ネットにおける諸説とは大まかに区分すると以下の3パターンがあります。
1.定説のとおり「スリ・アユタヤ」は出撃したが海戦に間に合わなかった説
2.そもそも、「スリ・アユタヤ」は出撃すらしていなかった説
3.じつは密かに「トンブリ」もろとも撃破されちゃった説

で、1説の拠り所となっていると思われる「撃沈戦記」を丁寧に読みこむと、恐るべき疑惑が浮かび上がってくるのであります!
それでは、「撃沈戦記」の記載を要約して時系列順に追ってみましょう。

まずは、タイ側の主な編成についてです。

【第一戦隊】
海防艦「スリ・アユタヤ」、水雷艇「トラッド」、「ブケット」、「スラシッタ」、漁業保護艇一隻

【第二戦隊】
海防艦「トンブリ」、水雷艇「ソンクラ」、「チョンブリ」、「ラヨン」、敷設艇及び漁業保護艇一隻

で、いよいよ戦闘経過。

①0625:フランス艦隊が戦闘海域に突入し、タイ第二戦隊所属の水雷艇「ソンクラ」と「チョンブリ」を発見。ただちにフランス艦隊の旗艦「ラモット・ピケ」が砲撃を開始して二隻を大破炎上に追い込む。後に後続の通報艦の砲撃により撃沈。

②0630:朝靄で良く見えないけど、何かがいそうなので「ラモット・ピケ」が魚雷三発を発射。二発は陸地に当たったようだが、一発は明らかに船体への命中音を確認。

③0625~0635:「ソンクラ」と「チョンブリ」が撃破された後、タイ水雷艇「トラッド」が戦場に出現。しかし、これもまた「ラモット・ピケ」の砲撃により大破に追い込まれる。

④0645:海防艦「トンブリ」が戦闘海域に出現。距離12000メートルからフランス艦隊に対して砲撃を開始。

⑤0713~0717:フランス通報艦「アミラル・シャルネ」に「トンブリ」の巨弾が集中し危険な状況となる。しかし、「トンブリ」にもフランス艦隊からの砲撃が次々と命中し、艦橋付近に火災が発生。発令所がやられて射撃能力が低下。また浸水によって右舷に傾斜し始める。
追撃中の「ラモット・ピケ」が浅く座礁し、「トンブリ」からの砲撃が集中し始める。

⑥0805:フランス艦隊は、これ以上の深追いは危険と判断して引き揚げを開始。

⑦0858と0940:タイ航空機が2回に渡り帰投中のフランス艦隊を空襲するも、命中弾は無し。

以上、原文は全体的な文章の印象から察するに、フランス側の記録を基にして書いたものと思われます。

そしていよいよ、重箱の隅をつっつく検証スタート!

まずは③のタイ水雷艇「トラッド」についてですが、冒頭の編成上では「スリ・アユタヤ」率いる第一戦隊に所属と記載されていますが、この部分の文章では「トラッド」は第一、第二どちらの戦隊にも所属していない船と書かれており、明らかな矛盾が生じています。

また、気になるのは②における「ラモット・ピケ」が発射した魚雷の命中音です。「明らかに船体への命中音を確認」とのことですが、この時点で撃破された水雷艇は、いずれもフランス側の砲撃によるものであり、もし500t未満の水雷艇に魚雷が命中しようものなら、木端微塵に吹き飛んでいることでしょう。
しかし、別の資料でトラッド級全体の損失記録を調べてみても、「ソンクラ」と「チョンブリ」以外の損失艦は見当たりません。

最大の謎・・・

一体、この魚雷に誰がやられたんだ?

さて、ここでこんな興味深いHPを御紹介いたします。
この「日本タイ協会」様のHPには、日本製の艦であった潜水艦やトンブリ等の艦艇についての記録が紹介されており、そこには「スリ・アユタヤ」が当海戦において大破に近い状態で戦線を離脱した後、日本に回航されて修理された旨が記載されています。




・・・・ってことは、魚雷が命中した謎の船って・・・・



「スリ・アユタヤ」お前か~っ!


そう、戦闘には間に合わなかったとされているタイ第一戦隊は、実はフランス艦隊が殴りこんできた時に戦闘海域に存在しており、開幕魚雷でまさかの旗艦大破撤退、お供の水雷艇の一隻も秒殺されちまったという、まさに戦隊まるごと出落ちともいえる状態だった可能性が浮かび上がります。

おいらが考えるに、ちょうどタイ艦隊は哨戒任務の交代もしくは決戦の為に第一、第二戦隊が集結したその瞬間に、運悪くフランス艦隊の襲撃を受けてしまったのではないかと。そう考えると、第一戦隊の水雷艇「トラッド」が戦場に存在していたことも矛盾しないんですよね。

もし、それが事実だとすると、フランス艦隊の旗艦「ラモット・ピケ」は、水雷艇三隻を砲撃で撃破(後に二隻沈没)、「スリ・アユタヤ」を雷撃で撃破、とどめに「トンブリ」も砲撃で撃破(後に転覆沈没)、というシャア大佐もびっくりな超エースっぷりを発揮したことになります。流石はおフランスの旗艦だぁっ!

そう、まさにラモット・ピケ無双!

なんだかもう、タイ艦隊がほんとに一方的にやられまくった印象ですが(事実そうなんだけど)、「撃沈戦記」に記載されているように、タイ艦隊の戦いっぷりは、炎上する水雷艇が最後まで砲撃を続けていたり、トンブリの単艦による粘り強い砲撃戦等、フランスも認めざるを得ないほどに勇敢であったそうです。

参加艦艇の隻数だけ見ると、軽巡1隻+通報艦4隻のフランス艦隊 VS 20センチ砲搭載の海防艦2隻+水雷艇6隻のタイ艦隊の戦いは、一見好カードに見えますが、船の大きさを示す排水量の合計で見ると、フランス側の合計排水量15.838tに対してタイ側の合計排水量は7.350tであり、2倍以上の体格差であったことが分かります。

だがしかし!だがしかし!巨砲と魚雷による一発逆転の可能性も十分にあったタイ艦隊は、まさに男の浪漫を追求したような編成であり、せめて一発でもいいからフランス艦隊にヒットさせていればなぁと思うのはおいらだけではないはずだ。

今宵は、勇戦敢闘の末、男の浪漫と共に沈んだタイ艦隊に献杯を捧げようと思いまふ。

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微笑みの国が見た悪夢~コーチャン島沖海戦その1~
さぁさぁ、今宵は久しぶりにおもしろ海戦史を紐解いてみようと思いますわ。
今回フューチャーするのは、タイと仏領インドシナが激突したコーチャン島沖海戦でごわす!

時は1941年1月17日。シャム湾にぷかりと浮かぶ小島コーチャン島周辺でタイ海軍VSフランス海軍という世にも珍しい海戦が発生いたしました。

事の起こりは、前年に勃発したタイ・仏領インドシナ紛争において、タイ海軍が制海権確保の為に艦隊を進出させたことに伴い、フランス側は「タイ海軍さんがそうくるなら、こちらも行きますわい!」と、臨時に第7戦隊を編成してカムラン湾から勇躍出撃、小島が多く存在するコーチャン諸島にて両軍は激突したんであります。

とりあえず、両軍の戦力を見てみましょう。

まずはフランス海軍からいってみまひょ。
第二次大戦中はドイツ様の電撃作戦によりバビビビッと感電死しちまったおフランスですが、海軍はイタリアのそれに匹敵する有力な艦隊を整備していました。インドシナには、軽巡ラモット・ピケをはじめとして、通報艦なるお船を揃えており、今海戦では以下のお船が参戦しております。

【フランス海軍第7戦隊(臨時編成)】
デュケイ・トルーアン級軽巡「ラモット・ピケ」排水量9350t、15.5㎝連装砲4基、55㎝三連装魚雷発射管4基、搭載機1機装備
ブーゲンヴィル級通報艦×2隻 排水量2600t、13.8㎝単装砲3基、機雷50発、搭載機1機装備
アラ級通報艦×2隻 排水量644t、13.8㎝単装砲2基、7.5㎝単装砲1基装備

尚、ブーゲンヴィル級通報艦は、速力こそ遅いものの水上機も搭載出来る上、フランスの誇る超駆逐艦と同じ備砲であり、打撃力はちょいとした駆逐艦並の優れた艦だったそうです。ただし、アラ級は旧式で船体も商船形状であり「とりあえず砲は積んでるので来ちゃいました。テヘ♡」みたいな感じだったのかもしれません。

【タイ海軍】
トンブリ級海防戦艦×2「スリ・アユタヤ」、「トンブリ」。排水量2265t、20㎝連装砲2基装備
トラッド級水雷艇×6 排水量470t、7.6㎝単装砲×3、45㎝連装魚雷発射管×2装備

編成上は、フランス海軍が中口径砲をメインとした速射重視に対して、タイ海軍は20センチ砲と魚雷をメインとした一発重視と言えます。
しかし、やはり面白いのはタイ海軍ですね。
頼みのトンブリ級が20センチ砲装備と言っても船体は2000tクラスであり、イタリア製のトラッド級水雷艇に至っては500t未満でしかありません。
もはや、タイ海軍は艦隊全体がラッキーヒット狙いという、恐るべきギャンブラー艦隊となっていたのであります!「中々当たらんけど、当たったらすっげーぜ!」って感じでノリノリだったんでしょうねぇ。事実、フランスの艦艇はトンブリ級の20㎝砲を喰らったら、下手すると一発轟沈の可能性が十分にありました。問題なのは、「敵も撃ってくる」ということを完全に無視した超絶楽観的な編成になっていたことでしょう・・・。
かたや、フランス海軍は堅実に弾数勝負でいくぜ!といったところでしょうか。

このパチンコVSパチスロみたいな愉快な海戦の勝敗やいかに!?

前哨戦の偵察合戦では、両軍とも航空機による索敵を実施しますが、フランス海軍のロワール130飛行艇がタイ艦隊の発見に成功します。一方タイ側はフランス艦隊を発見できませんでした。ちなみに、この殊勲のロワール130は、フランス艦隊の搭載機ではなく陸上基地の所属であった模様です。(当時の艦載機は旧式のポテ452)

タイ海軍は艦隊を二つに分け、「スリ・アユタヤ」とトラッド級水雷艇三隻による第一戦隊と、「トンブリ」とトラッド級水雷艇三隻による第二戦隊を編成し、かわりばんこでコーチャン島周辺でフランス艦隊を待ち構えていたようです。(兵力分散の愚万歳!)

かくして、貧乏くじを引いてしまったのは「トンブリ」率いる第二戦隊の方でした。

1941年1月17日の払暁、フランス艦隊は偵察機から受け取った情報を基にして、旗艦「ラモット・ピケ」を先頭とした単縦陣により、タイ艦隊第二戦隊が待ち受ける海域に一気に突入!

島影でスヤスヤと眠りについていたトラッド級水雷艇2隻を「おはよう」のビンタで張り倒し、慌てて駆けつけた「トンブリ」を「ラモット・ピケ」の15.5センチ砲による高速突っ張りで押し出し!
「スリ・アユタヤ」の第一戦隊が到着した頃には、フル☆ボッコにされて路上で泡吹いてぶっ倒れている第二戦隊を発見!というまさに一方的な横綱相撲を展開。

ストリートファイターⅡにおける「待ちガイル状態」だったはずのタイ艦隊は、よそ見した隙に「昇龍拳」からの「竜巻旋風脚」で瞬殺されちゃったという恐るべき事態になってしまったのでありました。(合掌チーン)

かくてワンパン狙いのタイ艦隊の夢は、脆くもシャム湾に潰え去ったのであります・・・。



っていうのが、日本におけるコーチャン島沖海戦の定説ですが、よ~く調べてみると・・・

そうじゃないっぽい!?

と、いうわけで、その2に続くんであります!

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