参考文献は平安隆雄氏の論文「海防艦『志賀』小史」であります。この論文はおいらの知る限り「こじま」についての唯一の学術論文と思われ、「こじま」ファンの方は必読の貴重文献であります。タイトルでググると閲覧できますよ!
それでは、「こじま」改装記のはじまりはじまり~♪
1945.3.20 佐世保海軍工廠で海防艦「志賀」として竣工。
1945.5月 舞鶴にて艦橋下の八糎迫撃砲を撤去し、25mm機銃三連装3基、単装1基の増設工事を実施。
1945.9月 終戦にともない、佐世保にて武装解除。
1945.10月以降 掃海作業用に改装工事を行い、46年7月まで掃海作業に従事。
1946.11月 三菱重工横浜造船船渠にて米軍連絡船として使用する為に大規模改装工事を実施。主な改装点は以下の通り。
①船首楼を延長し、船室を拡大
②階段の拡大
③ブリッジを両舷に拡大
④船体側面に半円形の防舷材を設置
⑤救助艇4隻を設置
この状態で、49年頃まで連絡船として運用。
1950~1953まで中央気象台の定点観測船「志賀丸」として太平洋で気象観測業務に従事。
尚、51年の2月14~15日に激しい時化に見舞われ、最大38度のローリングに見舞われたという。あなおそろしや・・・。
1954.1.1 海上保安庁に移管。巡視船「PL106 こじま」と改名。
1954.3月頃 呉にて海上保安庁の練習船に改装。主な改装点は以下の通り。
①遠洋航海(日本一周)に用いる為に船体の補強工事を実施
②3インチ砲、40mm機関砲、20mm機関砲を各1基づつ搭載
1955.9月 ハワイまでの遠洋航海を実施する為に、日立因島造船所で更なる船体補強工事を実施。
1956 引き揚げ輸送の為に武装撤去工事を実施(一時的なものか?)
1964.5.20 解役
1965.8月 千葉市に払い下げ。呉から回航後、千葉県市原のドッグでエンジン等を下ろす工事を実施。その後、埋立前の稲毛海岸に移動して固定される。積み下ろした機関の代わりに、船首と船尾周辺の内部に砂利を大量に詰め込んだようです。(図面に砂利詰めと記載されていました)
1966.3月 海洋公民館への改装工事中に火災を発生するが、5月26日に無事開館。
1969年より周囲の埋立工事が始まり、74年に埋立完成。団地の中に船が浮かぶ異次元スポットとなる。
海洋公民館となってからの改装は、木甲甲板をコンクリでコーティングした以外は、恐らく老朽化して危険になった備品を取り外していく工事がメインとなったと思われます。
ちなみに、逐次撤去されていった備品で外見上目立つ部品は、ブリッジ前面のサーチライトとブリッジ後方にあった2段重ねの箱状の構造物、及び2隻の救命艇です。救命艇は80年代までは搭載してあったように思います。
また、ボートダビッドは、稲毛海岸回航時には4組ありましたが、前半分の2組は公民館への改装工事中に撤去されたらしく、ボートデッキの前半は広い休憩スペースになっていました。
青い天幕の張られたその場所で、ベンチに座りながらお弁当を食べた記憶が有ります。
最後に、ネットでよく見る撤去寸前の「こじま」の写真は、錆だらけでまるで幽霊船のようであり、千葉市の「こじま」に対する酷い仕打ちがことさらに強調された記事も多いのですが、公民館として運用されていた時は、定期的にペンキの塗り直しを実施していたので、塗り直し直後の「こじま」は、白鳥のように真っ白で、とてもとても綺麗な船でした。
「こじま」の千葉市における約30年の歴史は、解体の経緯はともかくとして、その大部分は行政も市民も「こじま」を大切に扱い、地域から愛され続けてきた存在であったことを忘れてはならないと思います。現在、閉館後のおんぼろ状態の写真が多く出回っている事が残念でなりません。
少なくとも、おいらの記憶の中の「こじま」は、純白の綺麗な姿のままなのであります。
※閉館後の「こじま」は、公民館として運用されていた船体だけではなく、池を含む周辺施設も手入れがされなくなり、酷く荒廃した環境になっていたのは事実です。
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